鐵砲町竿燈会


 夏の病気や汚(けが)れを祓うために古くから行われている「ねぶり流し」。旧暦の七夕に、形代を汚れや邪気とともに水に流す行事が発達したものだといわれています。
竿燈祭りが始まったのは今から約250年以上前のこと。各家の前にある行燈や長い竿のようなものを持ち、町を練り歩いていたものが、徐々に形を変え、現在の竿燈までへと発展したといわれています。現在は五穀豊穣・厄除け等を願う年中行事の一つとなっています。


鐵砲町は、現在の大町六丁目に相当し、当時は鉄砲鍛治職人が集まる町内だったといわれています。私たち鐵砲町竿燈会は、江戸中期ころから竿燈祭りに参加しており、竿燈の歴史とともに今もなお歩み続けています。鐵砲町の町紋は「鐵」。半纏には鐵の文字のまわりに「青年」の文
字が描かれています。
 

提灯には鐵一文字、反対側には秋田に伝わる伝説の狐「與次郎稲荷」が描かれています。
 
この與次郎稲荷は、秋田の版画家「勝平得之(かつひらとくし)」 が描いたもので、勝平得之生誕の地が鐵砲町であるということにも関係しています。現在も勝平得之が描いた與次郎の掛け軸が、町内で大切に保管されています。

鐵砲町竿燈会 竿燈妙技会戦績
大若団体規定演技 囃子方
平成11年
優勝
平成元年
優勝
平成7年
優勝
平成2年
優勝
大若団体自由演技  
平成4年 優勝    
 

與次郎稲荷の伝説

與次郎稲荷は、秋田藩士佐竹に仕えた狐の伝説として古くから言い伝えられています。
現在の千秋公園に、久保田城を築いた佐竹義宣公。久保田城が建てられた場所には狐が住んでいました。
久保田城の建立で住み家を失ってしまった狐は。義宣公に新しい住み家を与えてもらうよう懇願しました。
義宣公は狐に城の茶園近くに住み家を与え、茶園守の與次郎と呼びました。
與次郎は、飛脚となって義宣公の前に現れ、秋田と江戸を六昼夜で往復し、義宣公のもとで大いに働きました。
與次郎の活躍で仕事を失った飛脚の恨みか、それとも幕府の策略により、與次郎が宿をとっていたとされる出羽国六田(山形県東根市)で、油揚の罠にかかり、暗殺されてしまいます。
その後、出羽国六田では與次郎の祟りが起きてしまい、幕府は與次郎稲荷大明神を祀りました。
與次郎狐の無念の死を哀れみ、義宣公が祠をつくりその霊を祀ったのが、現在の千秋公園本丸に移された與次郎稲荷神社です。
私たち鐵砲町竿燈会は、毎年竿燈祭りの初日、與次郎稲荷神社にもお参りしています。
どうして與次郎稲荷の絵が描かれているのかというと…
かつて、竿燈の提灯に描かれていたマークは、「日の丸」でした。戦後、「日の丸」が禁止され、
日の丸の代わりに一時期は「若」を描いていたといわれています。しかし、昭和34年「勝平得之(かつひらとくし)」
の提案で、五本扇(佐竹氏の紋)、俵、蕗、與次郎稲荷が図案化され、與次郎稲荷が描かれるようになりました。

どこから與次郎稲荷が出てきたのか、それは、千秋公園のお城からの抜け道が、鉄砲町にあったという
言い伝えが、あるとかないとか・・・

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